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徹底的な肉体苛め、斜に構えたリリシズム、そして冴えない(失礼!)男達女達が舞台の上で見せる奇跡のような煌き。
つかこうへいは、ある時期の演劇をやっている若者に通過儀礼のようにのしかかってくる大きな存在であった。劇団「つかこうへい事務所」は憧れであり、目標であり、倒さなければならない強大な敵のようなものであった。稽古が終わった後、安居酒屋で長居をして「つか」のことについて語った大学生時代の夜は今でも私の滋養だ。
つか作品は以前は文庫として多く発行されていた。それほどポピュラーな存在だった。軽妙洒脱で毒の効いたエッセイはさまざまな人に愛されたし、戯曲は演劇を勉強する若者達のある種バイブルでもあった。安保闘争や集団就職。それはすでに過去に起こった「現代史」の中での言葉であり、10年代の今を描く作品は数限りなく生まれ続けている。つかの作品は時代に密着しすぎていたために年数を重ねると古びた感じを持ってしまったのかもしれない。ある時期からつぎつぎと出版社の目録から消えていき、ふと気づくとほとんどのつか作品が図書館でしか読めなくなってしまっていた。
演劇の特徴として、一回性のものであるということがある。その劇場に足を運んだものにしか共有できない感覚・感動。それが演劇の醍醐味であり、役者が生きている以上本当の意味で二度と同じものは上演されることはない。それをもっと推し進めたものがつかの演劇作法なのだ。
だからこそつかは「再演」をしていたのだと思う。黒木メイサ・小西真奈美・草g剛・石原さとみ…現代のスターたちと共に作り上げられていく「過去」の作品は決して古びることなく「現代」のものとして再構築されていた。
つかこうへいの演出術のひとつとしてよく語られるのは「口立て」という手法だ。テキストとして完成版の戯曲を渡してそれを覚えるのではなく、稽古の中でつかの発した言葉を役者が覚えそれを台詞として組み立ててゆく。稽古のたびに台本は役者の肉体を通してうねり、いつでも「新作」が出来上がる。ひとつの戯曲が上演を重ねるごとに変貌をとげる。観に行く観客は楽しみで仕方ないが、テキストとして戯曲を買って読む人間は不完全なものを読んでいるのかもしれない。
だが読みたいのだ。どうしても近づけないのなら、だからこそ読みたいのだ。もちろん戯曲は面白い。舞台の息遣いは感じられるし、古びた題材を使っているように見えて人間の根幹を描いているのが自分の深い部分をえぐる。熱すぎるほど熱い台詞のやりとりにぐいぐい引き込まれる。劇場にいなかった自分が悔しい。でもそんな気持ちはマイナスではない。なによりつかはもういないのだ。私たちにはつかが遺した台詞や言葉や文章を読み、つかがもっとやりたかったことを想像するしかない。またそれが楽しいのだ。
今回の「つかこうへい全集」で読みたくて読めなかった戯曲のほとんどを読めるようになる。私にとってはちょうど良い品切れ期間だったかもしれない。渇望している今なら砂漠が水を吸い込むようにつかの言葉を読むことができるだろう。言わずもがなだが小説もエッセイも面白いことはまちがいない。形はあまり問題ではないのだ。どんな人にもある心の中の格好の悪い部分を、時に自虐的に時に愛にあふれて描き出す筆は、どの作品にも共通している。笑い、泣き、考えさせられる。そんなエンタテインメント性に溢れた作品たちだ。
良かった。私たちには「つかこうへい」という「天才」を読む愉しみが遺されている。
ジュンク堂書店西宮店店長 角石 美香(かどいし・みか) 書店人、また仕事の傍ら20年以上アマチュア演劇界に籍を置く演劇人
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