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『紅の袖』
年表の出来事を一つ一つ確認するように、後から振り返って、あれは転機だった、と思うことがある。渦中にいるときは、巻き込まれているだけで、それよりもっと些細な、日常の細々したことに気をとられている。細々としたことも含めて、後で総括してみると、あれは転機だったと思い至るのである。
人一人の転機よりもっと大きな、時代の変わり目はどうだろうか。やはり人は巻き込まれるだけで、全体がこうなりつつあるというより、日常の些細なことから目をそらせないものだ。
本書の主人公、沙代は、川越藩士樋口杢右衛門の妻女である。黒船来航に伴って御台場築造のため、品川御殿山に留まることになった夫に従い品川へやってきた。沙代は、黒船来航で何かが起こるらしい、と感じつつもなかなか決まらない下女や夫の朋友で幼なじみの彦左衛門に気を取られている。
下女としてみおという女がやってきたときも、沙代は彦左衛門や家事に気を取られている。やがてみおの不審な行動をおかしいと感じた時には、みおの企みに既に巻き込まれており、主従が逆転する。そのきっかけは、沙代と彦左衛門との密事をみおに目撃されたことであり、夫杢右衛門とみおの仲を疑ったことだ。
何かの企みに巻き込まれたらしい、と気付いても沙代は何もしない。ただ戦々恐々と自分を追いつめるものの顔色を窺うだけである。そして、みおの企みが明らかになったとき、みおもまた、黒船来航の騒ぎに巻き込まれた一人だとわかる。また、茫洋として見えた夫が実は今まで自分を欺いていたとわかる。
沙代は全てを知ってなお、みおに対して牙をむくことなく、夫に問いただすでもなく、再び日常の些細なことに気を配る生活に戻る。時代の変換期の不安な情勢の中、自分の身を脅かされたにもかかわらず何事も無かったように日常を続行する沙代が底知れず恐ろしい。 (た)
諸田玲子著 新潮社・1575円
『ギリシア語のかたち』
σοκολαταとは何のことか分かるだろうか。ギリシア文字で、読み方は「ソコラータ」。音が分かれば見当がつくであろうがチョコレートのことである。日頃ABCで始まるアルファベットに慣れている我々にとって、ギリシア文字はなじみの薄い文字である。そしてだからこそ、この文字に魅かれるのである。ギリシア文字の習得を目指すことに徹した本書は、こうした方にお勧めの書籍である。
画期的なのは、ABC(ABГ)から始めるのではなく、ギリシア文字五十音表を覚えることから始めていることである。自分の名前・日本の地名等をギリシア文字表記できるようになってから、ギリシア語に本格的に入っていく。その際にテキストとなっているのが、ギリシアの道路標識や看板、パンフレット、メニューなどの写真である。たどたどしく声に出しながら、こうした写真のギリシア文字を読んでいるうちに、ギリシア語を「読める」ようになるというすばらしい仕組みになっているのだ。「これはペンですか?」といった例文のための例文、文法の解説は一切ない。しかし、「読める」ようになると、一部の単語は推測可能になるし、ギリシア語会話や古典ギリシア語の導入も大分楽になる。
今夏には、アテネオリンピックが開催される。地元ギリシア語表記の看板などを、中継映像で目にする機会も増えるだろう。こんな時、文字が読めると楽しい。 (ト)
村田奈々子著 白水社・1365円
『食語のひととき』
この本は、「日本経済新聞」の土曜日夕刊に連載されたコラムをまとめたもので、食についての言葉を春夏秋冬に分けて百以上取り上げて分析している。著者は調理科学などの研究員だが、分析といっても専門的なものではなく、楽しい雑学がたくさん詰まっている。
興味深い語源も知ることができる。例えば、「ふわふわ」は、『古事記』にある、布が風を含んでたなびくという意味の「布波」からきたのではないかとされていて、これが転じて、軽く、やわらかい感じを表すようになったそうだ。
最初から順番に読んでいくのもいいが、毎食後にひとつずつ読んでいくと、より印象に残る。そのときの食事を表す言葉にはどのようなものがあるのか調べるのも楽しい。日本語にはオノマトペが多いといわれるが、食を表すものも豊富にあるということがわかる。
ごはんが「おいしい」のはいいことだが、毎回それだけの感想というのも面白みがない。おいしさを表す言葉を覚えておいて使いこなせたらどんなにいいことか。語彙の乏しい料理評論家にもお役立ちの本だ。食事の作り手も、さまざまな言葉でおいしさを表現されたら、より作ることが楽しくなるのではないだろうか。 (卯)
早川文代著 毎日新聞社・1470円
『ナショナリズム』『アナーキズム』
「名著でたどる日本思想入門」として同時刊行された二冊。同時刊行がミソだ。
対極として見られがちな「ナショナリズム」と「アナーキズム」は、前者が黒船来航と共に生じロシア帝国の脅威の前で成長し、後者が帝国陸海軍やボルシェヴィキなど全ての権力への反逆・暴動のさなかでのみ自らのユートピアを実現しうるという点で、同型である。だからこそ、明治末以降ナショナリズムはむしろ不在となり、大杉栄を中心とするアナーキズムが隆盛を極める、そして海外領土を失った敗戦後にナショナリズムが復興するという時代的な相補性まで持つのだ。それは両者がそれぞれ「国民国家」と「個の自由」という、「近代」の、容易には両立し得ない、さらにいえば端的に矛盾する二つの理念の原理主義だからである。両極のベクトルの逆方向は、即ち「近代」そのものが孕むねじれなのである。
浅羽のテンポよい語り口に乗って二著を駆け抜ける時、ジェットコースターのような陶酔感を覚えるのは、「近代」の両面がメビウスの帯を形作っているからかもしれない。そのメビウスの帯の連結点(順序を逆にして二著を読むとき、それは長距離走の始点=終点となる)こそ、かの小林よしのりなのだ。
一瞬「おや?」と思う人物が布置された二つの座標図は、本文を介して十分な説得力を持ち、秀逸。同時に。両書は決して単なる概説書ではなく、マンガやアニメにも及ぶ浅羽の視線は、きわめて今日的な問題意識に充ちている。 (フ)
浅羽通明著 筑摩書房 各945円
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