書標 2004.2月号
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書標・書評

西鶴をよむ

 本書は、国文学研究資料館にて5回に渡って行われた長谷川強氏の講義を、一冊にまとめたものである。長谷川氏は近世文学研究界の重鎮だが、一般市民向けの講義が元になっているだけあって内容はわかり易く、すんなりと頭にはいってくる。巻末には地図が付されており、西鶴ゆかりの地の位置を確認できるようになっているのも良い。地図と、ところどころに挿入されている写真に思いを巡らせているうちに、西鶴の世界へと誘われていく。西鶴入門書としてもお薦めの一冊である。
 何と言っても第一章「俳壇の風雲児」が印象に残る。現在は浮世草子作者として有名な西鶴だが、当時は俳諧の方面でも活躍していた。その活動の主たるものが、矢数俳諧の創始と興行である。西鶴は最高で23500の句を24時間の内に独吟したと伝えられている。自らを二万翁と称した所以はここにある。一分間に吟じた句の数を単純計算すると、何とその数16から17。あまりの驚異的なスピードに、記録する者が追いつけなかったという。
 西鶴の13回忌に弟子・北条団水が出した追善集『心葉』の序文は、この矢数俳諧の興行の様子は伝えても、浮世草子などの書名には全く触れていない。長谷川氏はこの点を指摘し、当時の人の意識と今日の西鶴理解との間には擦れ違いがある、と述べている。本書では問題を提起するに留まっているため、この問題に関しては今後の研究が待たれる。 (雨)

長谷川 強著 笠間書院・2200円


フューチャー・イズ・ワイルド

 架空生物誌というべき一群の書物がある。『鼻行類』『平行植物』『秘密の動物誌』あたりが有名どころであり、また山田正紀『宝石泥棒』、オールディス『地球の長い午後』などの小説も、架空生物好きにはたまらない内容だ。
 このような話題で必ず言及される一冊に、『新恐竜』という本がある。もし恐竜が絶滅しなかったらどのように進化したか、という問題を生物学、地質学を駆使して検証したもので、他の架空生物誌とは一線を画す極めて科学的な内容でありつつ、やはり奇想天外な世界が展開される魅力的な本だった。
 さて、その『新恐竜』の著者ドゥーガル・ディクソンの新著が本書である。地殻変動、氷河期、それによる大量絶滅を経た500万年〜2億年後の地球を、年代を追って紹介していく。CGで鮮やかに描かれる驚異の生物は、飛行する魚や陸上をのし歩く八トンのイカ。そして、その世界で最高の知性を持つ生命体は、やはりイカの子孫である「スクイボン」。
 いったいまた、どうしてイカが、という話は本書をお読みいただくとして(そういえば、映画「マトリックス」でもイカの形をしたロボットが未来世界を支配していた)、この意外な展開を人類の誰もその目で確認できないというのが、残念なことだ。願わくば、輪廻転生を繰り返し、何千世代か後に、スクイボンに生まれ変わりたいものだが、人類にその権利はあるのだろうか。 (茸)

ドゥーガル・ディクソン&ジョン・アダムス著 ダイヤモンド社・2400円


負け犬の遠吠え

 本書において、「負け犬」とは30代以上・未婚・子なしの女性のことを言う。対して逆は「勝ち犬」である。
 著者・酒井順子は自らが認める通り「負け犬」であり、この書籍は「負け犬」の視点から「負け犬」について書かれている。しかし「遠吠え」というほど惨めではないし、恨みがましくもない。それは、「勝ち」と「負け」をはっきりと分けているにもかかわらず「勝ち」つまり結婚して子どもを持つことが本当に「勝ち」なのか、何に「勝って」いるのか、著者もそれほど勝負に価値を見出していないからではないのだろうか。
 酒井順子は世間に対して自分は30代になってもまだ結婚もしていないし子どももいない「負け犬」であると認めることによって楽になったと述べている。「負け犬」は世間というなんだかわからない視線に対して述べている建前であって、実際本書で「負け犬」とされている女性のほとんどが「負け」とされていることにぴんとこないかもしれない。
 当事者とされている女性たちと、『負け犬の遠吠え』で酒井順子が「負け犬」ですと表面的に犬に例えると服従のポーズをとっているものとの意識のずれが興味深い。酒井順子は遠まわしに世間というわけのわからない視線をからかって遊んでいるのではないかとさえ思える。
 だからといって、ここで「負け犬」とされる女性の味方をしているわけではなくシニカルである。 (た)

酒井順子著  講談社・1400円


近代哲学再考

 うち続く宗教戦争を経てヨーロッパに深刻な形で現われた信念対立を克服するという課題のもと、認識問題を根本問題として出発した近代哲学は、その頂点たるカント、ヘーゲルに至って人間の「自由」の自覚がもはや不可逆的なものであることを知悉し、徹底的に「自由」という原理の上に人間の倫理の本質原理を打ちたてようとした。「ポストモダン」をはじめとする現代思想の基調は総じて「反=近代」であり、悲惨と矛盾に満ちた現代社会を結果した咎で近代哲学は常に批判の矢にさらされているが、「存在の謎」、「言語の謎」という「形而上学的」な問題にむしろ捉われ、ソフィスト的、スコラ的な議論に陥ってしまっている現代思想よりも、近代社会全体についての核心的な本質については、近代哲学がはるかにそれを深く捉えている。近代哲学の高い峰々を丹念に辿り直した上で、竹田青嗣はこう言い切る。
 そうした竹田の姿勢に、ぼくは大いに共感する。自ら検証することなく批判を鵜呑みにする態度は、およそ哲学を志す徒に最もふさわしくないものだからだ。
 全く同じ理由から、本書に対して全面的な賛意を留保する部分も残る。「死」「不安」などの契機を、ネガティヴなものとして軽視しすぎていないか、「自由」が、未だ「表象」に留まり、「概念」となっていないのではないか。
 そうした留保も、竹田なら、議論の深化の契機として受容してくれると思う。そして、何よりもダイナミックな議論をいざなう本書の「到来」を心から嘉したい気持ちを、改めて言明したい。 (フ)

竹田青嗣著 径書房・2100円