書標 2007.4月号
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書標・書評

『十七歳の硫黄島』
秋草鶴次著 文藝春秋・840円
 昨年、硫黄島の守備隊総司令官・栗林忠道を描いたハリウッド映画・『硫黄島からの手紙』が話題を呼び、太平洋戦争史上に残る激戦であった硫黄島での死闘が、再び耳目を集めることとなった。日本軍人屈指の名将といわれた栗林に関する書籍は、近年数多く出版されている。特に、家族を気遣った、心情あふれる絵手紙の数々は感動的である。
 その硫黄島で、一兵卒として戦った少年の手記が出版された。『十七歳の硫黄島』は、当時横須賀海軍通信学校に在籍していた少年・秋草鶴次が、硫黄島に赴任して6ヶ月の時点から始まり、栗林中佐玉砕後、満身創痍の状態で意識を失うところまでが描かれている。
 食料の欠乏、手榴弾で一瞬にして消えうせた戦友、容赦なく襲い掛かる敵弾……など、四六時中緊張感が続く戦場の地獄絵図を、秋草さんは、淡々と記録的に描く。その叙述の冷静さが、かえって戦場の恐ろしさを倍加して伝えている。
 秋草さんは、米軍の捕虜となり一命を取り留め、今も現役で電気関連の仕事を続けているそうだ。「玉砕」の一言で片付けられがちな硫黄島の戦闘の中で、戦友たちの姿を書き残しておかなければならないと、秋草さんは、不自由な右手で鉛筆を握り、鉛筆のお尻でワープロを打って本書を書き上げた。懸命に生き、そして志半ばで斃れていった仲間たちへの、静かなるレクイエムである。(濤)


『字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ』
太田直子著 光文社新書・735円
 ためしに周囲の人たちに尋ねてみた。
Q.映画を見るなら字幕と吹き替え、どちらが好きですか?
 結果は一人残らず「字幕」。
 吹き替えを避ける理由は自分のイメージと違うから、元の俳優と声が違うから。要は見ていて違和感があるのだ。違う人間が違う言語で喋るのだから微妙なニュアンスやイメージが変わるのは致し方ない。その点、ある意味では二次創作物だともいえる。もちろん吹き替えにもよい点はあるので、そう毛嫌いしなくても……と思うのだが、やはり元の形にはこだわってしまう。
 しかし、字幕を選ぶからといって「字幕が好き」なのではなく「外国語がわからないから仕方なく字幕」なのだ。そのため翻訳が変、原作と違う等、我々は好き勝手に文句をつける。それらの文句と日々戦いながら仕事をするのが字幕翻訳者だ。
 常々、自分の気に食わない字幕を見てはぶつぶつ言う私だが、この本を読んで字幕翻訳の大変さを知った。限られた字数で誰もが理解できるように言葉を選ぶ難しさや配給会社からの放送禁止用語の規制、さらに「もうちょっと泣かせるセリフに」というご無体な要求と戦うのも彼らの仕事だ。これまでは字幕翻訳者の名前を見ては「こいつが変な翻訳をしたのか」と思っていたが、裏の事情を想像するとおもしろい。なんと言っても字幕のない洋画なんて洋画を見た気がしないのだから、字幕もひとつの文化だと思って誤訳も意訳も含めて楽しんでしまおう。(北)


『おまめの豆本づくり』
柴田尚美著 白泉社・1680円
 女の子は、いくつになっても小さくて可愛いものが大好きだ。ポケットに入れていつも持ち歩いては、こっそり取り出しては眺めて微笑む、自分だけの小さな世界。それが豆本である。
 一度見てしまうと、そのあまりの可愛らしさにくらくらしてしまうのだが、それほど存在を知られていないアイテムでもある。そんな夢の産物を一気に身近にする本が登場した。難しそうだと思っていた、というよりそもそも作るという発想のなかった豆本を、なんと自分で作れてしまうのだ。初心者でも半日で出来るように、豆本製作講師として知られる柴田尚美さんが、詳しい手順写真入で紹介してくれる。(こちらは普通の大きさの単行本)
 豆アルバム、豆絵本、豆ノート、和装綴じ豆本、豆巻物、豆飾り箱、等など十四種類の豆本がこれ一冊で作れる。材料は文房具屋さんで簡単に手に入る紙や糊と、お家に余っている布の端切れや糸でOKだ。小さくても栞や花布も付いている本格的な製本だから、その仕上がりに感動することは間違いない。
 ちょっとした贈り物に添えてカード代わりに、お気に入りの詩集を豆本で、秘密の日記帳に、あるいは交換日記にもいいかもしれない。豆本の可能性は無限だ。ぎゅっと凝縮した本への想いを、味わって欲しい。大量生産できないからこそ、大切な一冊になるだろう。(猫)


『信頼』
A・リンギス著 青土社・2520円
 「信頼」は知識からは生まれない、とリンギスは言う。「信頼」するとき、人は曖昧にしか理解していないものをかたくなに支持し、その言葉や動きを理解できない人に固く心を寄せる。「きみを信頼するのは、わたしの知識を超えて、きみというリアルな個人にすがることだ。」「信頼」に不可欠なのは、知識ではなく勇気なのだ。
 旅する哲学者リンギスは、さまざまな土地で、見知らぬ人、絆なき人、共通の価値観や契約上の義務を負わない人を毎日のように「信頼」する、という。地上にはよすがとすべき何の痕跡もないサハラ砂漠で、天空の星を頼りに進むガイドたちをリンギスは「信頼」し、今や世界の最貧国となったマダガスカル島で、言葉も通じない若者に、リンギスは自らのバックパックを託す。
 世界中の土地の情報を、われわれは本やビデオの言葉や映像から得ることができる。それでもわれわれは、はるかな時間を経ても、なおそこに残る聖なるものと触れあうために、衝撃と、驚きと、発見を求めて、旅に出る。「信頼」も旅も、決して言葉や知識を媒介としないのだ。
「遠くまで旅をすると、われわれは自分がしあわせな幼児の世界に戻っていることに気づく。」
 だからなのか、旅先でのリンギスのまなざしは、街中の名も知らぬ人々はもちろん、あらゆる動物、植物、天空から断崖絶壁まで、すべての自然に注がれる。
「信頼」とは、「いのち」の連鎖のことなのかもしれない。(フ)