「衝撃」が、次から次へと押し寄せる。『キンドルの衝撃』(毎日新聞社)、
『電子書籍の衝撃』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)…。
アマゾン・ドット・コムが2007年11月に売り出した「キンドル」をはじめ、ソニーや、
米大型書店のバーンズ&ノーブルも対抗機を発売、2010年1月にはアップルが
「iPad」を発表(日本では5月28日に発売)、と電子端末が続々と出現、
『電子書籍の衝撃』は、ジュンク堂池袋本店新書売上げの4月度第一位となった。
『電子書籍の衝撃』の著者、佐々木俊尚は言う。
"これまでだったら、ほしい本は書店に買いに行かなければいけませんでした。
都心の大きな書店ならともかくも、地方の書店だと自分のほしい本が置いてあるとは限りません。古い本だと絶版になっていることも
多いし、そもそも書店にまで足を運ぶという手間は省けないのです。
アマゾンのオンライン書店なら配達してもらえますが、日にちはかかるし品切れになっていることも多い(注1)。"
「書店に買いに行かなければいけませんでした」、「そもそも書店にまで足を運ぶという手間は省けない」、まるで書店に赴くという
行為は、本を入手するための「必要悪」であるかのような表現である。そうした「手間」のないオンライン書店にしても、「日にちは
かかるし品切れになっていることも多い」、だからこそ電子書籍への移行は望ましいものであり、必然的だ、これが電子書籍待望論
=紙の本駆逐論の基本的な構図のひとつだといってよいだろう。
だが、その議論は果たして自明なのか?
佐々木は、1998年、約150社の出版社と電機メーカーが集まって旗揚げした「電子書籍コンソーシアム」がわずか二年で閉鎖
されたことにも言及し、この試みが失敗した原因を述べる。
"本当はインターネットを経由して電子ブックをどう流通させるかという枠組みまで検討するはずだったのですが、本の卸売を行って
いる取次が参加していたことから、「書店を中抜きしたら困る」という話になり、結果としてネット配信ではなく書店に端末を置くと
いう変なしくみになってしまいました(注2)。"
"日本でこの取次中心の流通システムが確立している状況の中では、出版社も取次に遠慮して、電子ブックになかなか本を提供し
てくれません(注3)。"
日本の出版流通システム批判の定番とも言える、「取次悪玉論」、「取次不要論」の新バージョンである。
確かに、雑誌の物流に書籍が乗っかった日本の出版流通システムが、「金太郎飴書店」化、客注対応の遅さなど多くの問題を抱え
てきたことは確かだ。
しかし、出版社、取次、書店の業界三者が、そのことに無自覚で問題を放置してきたわけではない。たとえば客注問題にしても、
ネットワークシステムを駆使し、出版社、取次、他支店の在庫をいち早く検索し、速やかに読者にお届けすることに努力してきた。
宅配システムも整備し、「アマゾンのオンライン書店なら配達してもらえますが、日にちはかかるし品切れになっていることも多い。」
という状況に決して負けないという自負はある。
現在の出版流通システムへの批判に対し、『書棚と平台』(弘文堂)で果敢に反論したのが、柴野京子である。彼女は、「購書空間」
という概念を創造し、書店、取次の存在意義を再発見しようとする。
"人と本の関係は、読書以前にまず物体としてのそれを手にする場面、購書に始まると筆者は考えている。(中略)その人にとっての
一冊がどこで選ばれるのかは、単純な命題のようにみえてあまり考察された形跡がない。しかし、それがおそらく生産に従属しない、
流通独自の作用なのである。"
購書空間は、この作用をはかるためのアイデアである。オルダースンの定義にしたがって、「意味のある集合」
をつくり出すのが流通機能とするならば、購書空間はその最終段階で直接人々に意味を提示する自立した装置、
テクノロジーと考えることができる(注4)。"
私たち書店人が販売しているのは、「読書」という経験であり、書店で本を選び購入するという作業こそ、
その第一ステップだ、という私の信念は、柴野の議論に共振する。そして、出版社や取次の協力を得つつ、
自らを読者にとって魅力的な「購書空間」にすることこそ、書店の、更には現在の出版流通システムの、引いて
は「紙の本」の存在意義を担保する、と確信する。
より広い観点から現代的な経済活動を論じてやはりベストセラーとなった『フリー』(NHK出版)は、「あるものをタダであげることで、
別のものの需要をつくり出す」という、20世紀に誕生した「もっとも強力なマーケティング手法のひとつ」が、どんなカラクリで利益を上げ、
人々の経済行動に影響を与えたかを論じている。
「フリー(タダ)」を切り札とした経済活動が現代のデジタル社会に親和性を持つことは、誰しも納得するだろう。そして確かに、
コンテンツの配信に関して、電子書籍は「紙の本」の流通に比べて圧倒的な優位を持つ。出版社から取次を経由して書店に商品を届け
それを書棚に並べるための膨大な労力(=人件費)と諸経費が「フリー(タダ)」なのだから。
" もしも「価格が限界費用まで下落する」のが法則ならば、無料はたんなる選択肢のひとつではなく、必然的に行き着くところになる。
それは経済学における万有引力の法則で、私たちにできるのは、しばらくのあいだそれに抵抗することだけ
だ(注5)。"
著者クリス・アンダーソンの言うことが真実だとしたら、私たちにどんな「抵抗」の手立てが残されているだろう。
私たちはコストに見合う仕事を本当にしているのだろうか?
読者にとって魅力的な「購書空間」が成立しているか?
お客様が、「必要悪」としてではなく「愉しみ」として訪れ、利用後「また、来よう」と思って下さるような書店空間
たりえているか?
これら、実は一つの同じ問いを常に自らに投げかけ、イエスと答えうる仕事を続けること、これに尽きるのでは
ないだろうか。

アンダーソンは「万有引力の法則」に喩えているが、「熱力学の第二法則」=「エントロピーの法則」こそ、価値の分散と(見た目の)
平準化を謳うデジタル社会に相応しいかもしれない。ならば、我々の「抵抗」は、「
だとすれば、それはまさに望むところだ。「
動く、と私たち書店人は、言う。本が売れていくことを、そのように表現する。売れ行きが良い場合は、「よく動いていますよ。」と言う。
一方、なかなか売れないときには、「動きが鈍い」と言い、売れなくなった時には、「止まった」と言う。まるで本自体が意思を持ち、
活力を着脱しているかのように。
既刊本が流通現場や出版社に在庫されているとき、即ち何らかの手立てで入手し販売し得るとき、私たちはその本が「まだ生きて
いる」と形容する。
少なくとも商品としての本は、限られた販売期間を持つ。品切れ・絶版となった商品を売り買いすることはできない。
(絶版になったことを「死んだ」とはあまり言わないが、「生きている」という表現自体、「死」を前提している。)。
本は、「いのち」を持ったものなの(注6)だ。
生命体がそうであるように、個々の本の「いのち」は多様である。華々しく輝きをはなったベストセラーもあれば、人知れず消え去った
本もある。
長く読み継がれる「寿命の長い」本もある。
生命体がそうであるように、本の「いのち」は他の個体を生みだし、「いのち」そのものが受け継がれていく。書店の棚は、知らず
知らずのうちにその様相を変化させつつ、「いのち」の流れを湛えてきた。
突然活力を与えられて、繁殖しはじめる「いのち」もある。一瞬にして書店の棚は、ある「いのち」の群れで覆われる。「動物占い」
関係の本は、「インド数学」関係の本は、一体どこへ行ってしまったのだろうか?
新刊は瑞々しい、盛りの本は勢いがある。長く売れ続ける本は、それなりの年輪を感じさせる(紙の原料はもちろん木である)。
枯れた味わいの本もある……。
書店の棚の中で、生命体と同じく、本は他の本との関係の中で、自らの「いのち」を輝かせてきた。
「いのち」とは、限りあるものである。本が「いのち」を持つのは、それがいつか無に帰する定めにある「モノ」だからである。
老いることもなく、朽ちることもないデジタルコンテンツは、死することが無い。ゆえに「いのち」を持たない。
加藤典洋は、「電子活字はどうすれば死ぬことができるのか」と問う。
"ウェブ媒体に今度は紙媒体の「空間の限界性」を回復しようとするこのキンドルも、まだ中途半端だとわかります。佐野洋子さんの
『100万回生きたねこ』が、思い出される所以です。……
活字に恋し、自分も死ぬことを選ぶとき、ウェブにようやく新しい運命が宿る。それまでは駄目でしょう。まだ「何回も生きようとしている」
うちはね(注7)。"
本が「いのち」を持つのは、「モノ」として受肉しているからだ。否、受肉というより受「紙」と言う
べきか。
ところで、その「紙」は、本のみならず、もっと広範な場で、電子媒体にその座を追われるはず
ではなかったか?
いまや、ネットワーク化され最新のソフトウェアを備えるさまざまなコンピュータにアクセスし得る
環境にあり、さまざまな周辺機器も配備されている多くのオフィスは、紙の役割を大幅に減らし、
紙を駆逐することを想定していた。だが紙は、今むしろ益々多くのデスクを占拠していると言って
いい。何故か?
『ペーパーレスオフィスの神話』(創成社)の著者たちは、そうした見込み違いが、紙の役割の過小
評価に起因するとみて、オフィスの作業における「紙のアフォーダンス」を徹底検証する。
「アフォーダンス」とは、それが人にどのような行為を可能にするかに着目して抽出された、物の物理的な特徴である。
軽くて柔軟で、書き込みができ、その書き込みが固定され、触ることができることによって、
1.紙は、ドキュメントのナビゲーションを柔軟に支援する。
2.紙は、複数のドキュメントの相互参照を容易にする。
3.紙は、ドキュメントへの注釈付けを容易にする。
4.紙は、読む行為と書く行為を同時にうまく結合させて行えるようにする(注8)。
それらの「アフォーダンス」は、特に進行中のプロジェクトにおいて不可欠であり、IT機器でそれを代替するのは実は容易ではないこと
が明らかにされる。
"このようなこと(ドキュメントを迅速に、そして巧妙に飛ばし読みする;ドキュメントを読み終わる前に、ページを上手にめくり始めること)
が可能な理由は、紙の物理的な感触により、ページをめくるのに、ほとんど注意(とくに視覚的注意)を払う必要がないためだと私たち
は考え始めた。
ナビゲーションするのに必要な情報の多くは、暗黙的であり、触覚に基づくものである。同様に、ドキュメントの
厚みのような物理的手がかりは、読み手がドキュメントのどこにいるのかについての重要な情報を暗黙的に
提供する。手を介してなされるこれらすべては、読み手の読むという主要な視覚的課題を妨害しない(注9)。"
一方、電子メディア、たとえばパソコンのディスプレイ上で文字情報(コンテンツ)を読むという作業については、
次のような観察がなされる。
"たとえば、電子的なウインドウを動かすためには、読み手はまず、他のウインドウによってしばしば見えなく
なっているタイトルバーにアクセスしなくてはならなかった。同様の問題は、読み手がウインドウのサイズを
変更しようとしたり、スクロールする際にも生じた。これらの行為は、制御可能なアクティブなエリアに厳しい
制約があるからである。この種のすべての操作は、高度な視覚的注意を必要とする。現在行っている主課題
(すなわち、読むこと)にとってはまったく付随的なこれら些細な作業が、読む作業から目をそらすことを読み
手に強いているのである(注10)。"
紙の束から成るモノである書物は、ぼくたちが想像している以上に「ユーザー(読者)・フレンドリー」なのかもしれない。
瀧口範子は、『電子ブックの何がすばらしく、楽しいのか』と題した文章の中で、
「コンピュータでも読めるはずなのに、どうしてキンドルが必要なのか。」と自問し、次のように答える。
"その理由はふたつだ。ひとつは、ディスプレイ。ソニーのリーダーも同様だが、キンドルのディスプレイはイーインク社が開発した
電子ペーパー技術が用いられている。コンピュータやテレビのような発光型とは違って、紙と同じように光の反射で文字を読む技術
である(注11)。"
「電子ブック」も、「紙と同じよう」であることを目指して、技術を磨いているのである。
そして「もう一つの理由」は、「電池の持ちがいいこと」だそうである。
(注1)『電子書籍の衝撃』46頁
(注2)同125頁
(注3)同128頁
(注4)『書棚と平台』108頁
(注5)『フリー』228頁
(注6)『本、それはいのちあるもの―出版流通の現場から』(稲葉通雄著 影書房 1985)
拙著『書店人のしごと』(三一書房 1991年) 96〜99頁
(注7)『考える人 2009年秋号 特集 活字からウェブへの……。』79頁
(注8)『ペーパーレスオフィスの神話』(A.セレン R.ハーパー著 創成社 2007年)87頁
(注9)同 105頁
(注10)同 106頁
(注11)『考える人 2009年秋号 特集 活字からウェブへの……。』106頁
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